僕の堀川ものがたりー1
名古屋に住んでいる人なら堀川はよくご存じでしょう。
残念ながら今では汚れきって「どぶ川」のイメージが強いと思います。
最近の環境問題に対する市民の関心が堀川の浄化に向かうようになり、いろいろな形で努力が積み重ねられています。
そのおかげでちょっぴりきれいになったようですね。
平成13年9月27日、10代目板東三津五郎の襲名披露講演PRと堀川浄化の一環として「船乗り込みお練り」が行われました。
白鳥から納屋橋の船着き場(最近作られた)まで、板東三津五郎さんはじめ、役者や名妓連のきれいどころが2艘の船でにぎにぎしく船乗り込みをされました。
その後をライオンズクラブのお偉方の乗った船が追いかけていました。
全名古屋ライオンズクラブで「堀川を清流に」の一環として「堀川一斉大掃除」が行われていますが、その延長でパレードに参加したのです。
私もライオンズクラブの関係者として船行列を見に行きましたが、汚いと言われて肩身の狭い思いをしていた堀川がこんな華やかな舞台として使われるようになったことに感無量、胸の熱くなる思いがしました。
というのも堀川は僕のふるさとだからです。
僕のふるさとは大船町、堀川端、桜橋と中橋の間の西岸の通りです。戦時中から昭和30年頃まで、こどもの時代を過ごしました。
桜橋は桜通りの堀川にかかる大きい橋で、戦時中は空襲の時にその下に船に乗って隠れたと聞いたことがあります。
堀川の東側は戦災で焼けてしまいましたが、西側は焼け残り、良く知られた四間道を中心とした家並みが今も残っています。
堀川に沿った西岸の通りは江戸時代から倉の多いところで古い建物ばかりでした。ちょっと北に行くと「川伊藤さま」の家があったりして、古い商家が文化財として保存されている地域です。
私の母の実家は「村上商店」という化学薬品を扱うしにせで、あたりは土蔵の倉庫に常滑焼きの瓶に入った薬品がいっぱい積んでありました。
終戦直後はトラックもなく、馬車で薬品を運んでいたもので、「かっぽかっぽ」という足音が鳴り響き、家の前には馬の落とし物がよくころがっていました。
薬品のつんと鼻を刺す臭いがしたり、時々瓶が割れて塩酸や硫酸の臭いと煙が立ちこめていることもありました。
ドラム缶の中に水飴が入っているのを友達が見つけみんなで舐めたこともありましたが、次の日に舐めたのはとんでもない苦い液体で「ぺっぺっ」。よく無事だったものだと思います。
子ども達は通りを走り回り、納屋橋、伝馬橋、桜橋、中橋、五条橋、景雲橋といった橋々が遊び場でした。
橋の欄干はまだ木製が多く、中橋の細い木の欄干の上を進駐軍の兵士が靴履きのまま踊るように渡っていたと聞いたこともあります。
私は名鉄瀬戸線の堀川駅(景雲橋北、東側にあった)から「瀬戸電」に乗って小学校に通っていたので、堀川沿いの道が通学路でした。
瀬戸線の「栄」乗り入れに伴い堀川駅から大津橋駅の間が廃線になったのは実に寂しい思いがします。
今でも堀川駅の跡地にたたずむと「ぷわーーん」という警笛が聞こえるような気がします。
五条橋は欄干のぎぼしが由緒があり、風格のある橋ですが、たもとに「弁慶湯」という風呂屋さんがありました。
五条橋を東端として円頓寺通りが延びています。子どもの頃は人出も多く賑やかでしたが、大須商店街が繁栄しているのに比べて、寂れてしまったなは残念でたまりません。