僕の堀川ものがたりー2
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前回述べたように僕のふるさとは堀川西岸の大船町です。
父が戦後、母の実家である「村上商店」の一部を借りて産婦人科医院を開業し、昭和30年に栄に引っ越すまで子供時代を過ごしました。
「ふるさと」といえば普通は美しい山河をイメージしますね。
「僕のふるさとは堀川」と言うと「あんな汚いところで」とみんな馬鹿にしたような顔をします。
それが悔しくて・・。昔はまだきれいでした。
堀川沿いの町にはまだ住人も多く、子供たちの声、夕方の「とーふー、とーふー」というラッパの音、物売りのおばさんの声など下町の生活感があふれていました。
家の西には浅間神社がありました。子供時代は広いと思ったのに先日訪れたら狭いのにびっくりしました。
お祭りになるとたくさんの夜店が出て人出も結構多かった。
露店の中には「菱の実」を売る店があり、棘が多くて見た目は良くありませんが塩味でとても美味しく感じられたものです。
私はおもちゃのピストルがとても欲しくて、母にねだったけれど買ってもらえませんでした。
お小遣いでは買えません。
じっと立っていると店じまいの頃になっておじさんが「まけたるわー」と言って安く売ってくれました。
ところが紙火薬の弾がない。なきべそをかいているとおじさんが「しょうがなゃあな」と言って一つくれました。
嬉しくて家に帰って「パンパン」とやったら母におこられて・・・。
父母にはかなり厳しく育てられ、紙芝居を見ることも水飴が不潔だからだめ、といった状態でした。
紙芝居を前で見ようとすると「あんたはル子を買っとらんで見ていかん」と言われ、電信柱の陰でこっそりと見たものです。
子供たちの遊び場は野積みされたドラム缶の間や、倉庫の裏、そして堀川の筏の上でした。
当時はまだ今ほど水は汚くなくて遊ぶことは出来たのです。
実際、下流の方では子ども達が泳いでいました。
どこかのおじさんが近くで穫れたと小魚を売りに来たこともあります。
堀川はもともと運搬のための水路として造られたものです。
今でも川岸には材木問屋が散見されますが、当時は軒を連ねるほどたくさんありました。
現在その跡地にマンションが建ち並んでいます。
材木は筏を組んで運ばれた後、そのまま堀川に係留されていました。
材木問屋の前を通ると「しゃーっ」という木を切る鋸の音とともに、ぷーんと木の良い香りがしたものです。
私たちはよく筏の上で遊んでいました。
ある日、隣の家の信ちゃんが「どぶーん」と川に落っこちて沈んでしまい、しばらくたってから頭に泥やゴミを乗せてぷっかりと浮かんできました。
「沈んでいく途中で川岸の出っ張りにに足が触ったもんで蹴飛ばしてきた」と余裕たっぷりでした。
今の堀川なら病気になってしまうでしょうが、当時はなんともありませんでした。
まだまだきれいだったのです。
そのことがあってから筏の上で遊ぶことは禁止されました。
父の開業したのは戦後間もなく。
産婦人科でありながら「何でも診た」ようで、電車の事故で足を切断した患者さんが運ばれたとか、脾臓の摘出をしたとか、勇ましい話を聞きました。
軍医になるための教育を受けた世代は強いと感心します。
また売春禁止法施行前で、その種類の女性が定期的に並んで受診するなど今では考えられない光景も見られました。
昭和30年頃に栄に移転したためその後は縁も薄れましたが、それでも「僕のふるさとは堀川」の思いは消えていません。
子供の頃のノスタルジアと言われそうですが、堀川をきれいにという大勢の方々の願いが叶う日の来ることを切望しております。